買いと売りと待ち

酒田罫線法による操作を練習しています。基礎に10年、道具は生涯。

教育は遠回りがいいのかなぁ

ここ最近、子供達が遊びに熱中的だ。次から次へ姉妹で遊びを変えて遊びつづけている。共働きの親としては、朝も夜も時間がないので、夕食からお風呂、お風呂から睡眠と効率よく移行したいので、遊びに夢中になっている子供にどうしても脅し的な声変えをしてしまう。絶対に良くないと思いながらも。

そう思っている矢先に、内田さんの記事で良いものを見つけたので、心に刻む。
もっと余裕を持てよ。育児は遠回りだろ?子供は勝手に成長するものだ。

ココから引用

「正しい育児」内田樹
一昨日は『プレジデント・ファミリー』、昨日は『日経キッズプラス』と2日続けて育児誌の取材を受ける。
どうしてなんでしょうね。
私は育児にビジネスマインドがからむことを少しもよいことだと思っていないので、これまでもことあるごとにこのような雑誌についての批判を公言してきた。
先方には私に筆誅を加えるいわれはあっても、ご高説拝聴というようなことを言ってくる義理はない。
ともあれ、せっかく遠路お越しいただいたわけであるから、「まあ、いいからそこに座りなさい」とエディターとライターを招じ入れて長説教。
あなたがたの雑誌が推奨しているような育児戦略はその根本から間違っているのであるという話をする。
両誌の編集者たちはたいへん熱心に聴いて、納得顔で帰っていった。
うーむ。
昨日の最初の話題は「子どもを階層の違う家庭の子どもと付き合わせることの可否」であった。
最初は質問の意味がよくわからなかったのだが、どうやら「自分たちとは価値観や生活様式の違う家庭の子どもとは付き合わせたくない」ということを公言する親御さんがいるらしい。
そうしたいなら、好きにすればよろしいとお答えする。
しかし、単一の価値観、単一の生活様式しか許容できないようなタイプの子どもが成長したあとどうなるか、親御さんたちも多少は想像した方がよろしいのではないか。
そのような子どもは長じて価値観や生活様式の違う人々と共同体を作ることを不得手とする人間になる。
当然ですね。
政治イデオロギーも信教も美意識も食物の好悪も、自分と「違う」人間はできる限り忌避し、似たもの同士の同類とだけ暮らしたいという人間が出来上がる。
ほんとうにそれでよろしいのか。
第一に、そういう人はクリエイティヴな仕事に就く上で多大の困難を覚えるはずである。創造的な仕事の現場とは、たいていの場合、「そのような考え方感じ方をする人がまさかいるとは思わなかった他者」たちとの出会いの場だからである。
それはまた配偶者の選択肢がきわめて限定されるということでもある。異性間で価値観と生活様式が一致することはきわめてまれだからである。
そして、運良く配偶者を得たとしても、それは自分の子どもと共生することに困難を覚えるということである。ふつう、幼児は価値観とか生活様式というようなものを確立していないからである。
それはまた、老齢者となった親(この雑誌の読者である人々)が子どもから忌避されるということをも意味している。老人と若者では価値観も生活様式もはなはだ異なるからである。価値観や生活様式を異にする人間とは共生しない方がいいと教えられてきた子どもたちは、合理的に推論した上で、彼らを「そんなふうに」育てた親たちについても、「最近、うちの親も年とっちゃって、なんか話が噛み合わないんだ」と思えば、逡巡なく視野から排除するであろう。
話が噛み合わない人間と話を噛み合わせるために知性的・感性的リソースを用いるのは「よくないことだ」と子供のときから教えられてきたら、当然そうなる。
もし、そうなっていないとしたら、それは子供たちが「価値観や生活様式が同じ人とだけ付き合いなさい」という親の教えに従わないで、勝手に成熟したからである。
子どもを「価値観や生活様式の違う家の子とつきあわせないためにはどうしたらよいのでしょうか」と訊いてきた親たちは、いずれ自分たちの子供から追い出されることを通じて、そのような問いの答えを求めたことを後悔するか、あるいは子供が自分たちの言うことをぜんぜん聞かないで成熟したことを知って、そのような問いの答えを求めたことの無意味さを知るか、いずれかであろう。
どちらにしても無駄なことである。
子どもは放っておけば、必ず価値観や生活様式の違う他者に惹きつけられる。
それは生き延び、子孫を残す上で必須な能力と資質がその関係をつうじて涵養されることを子ども自身が本能的に知っているからである。
それを親がそれを阻害しようとするのに「何か効果的な方法はありませんか?」と訊かれても答えようがない。
自分の子どもを「誰からも愛されず、誰も愛することのできない人間にしたいんですけど、どうしたらいちばん効率よくそうなれますか?」という質問に、誰が答えることができようか。

現在メディアで育児戦略として流布している理説のほとんどは「誰にでも、いつでも妥当する」という建前を掲げている。
しかし、その一点で、それらの理論はすでに間違っている。
というのは、育児は構造的に斉一的ではありえず、かつ首尾一貫しないものだからである。
すべての子どもはそれぞれにきわだって個性的であり、同じ子どもは二人といない。そして、子どもは絶えず変貌している。
だから、「誰にも、いつでも妥当する」育児戦略というのはありえないのである。
育児理論について私たちが言えるのは、「単一の、首尾一貫した育児理論はつねに失敗する」ということである。
「だったら、どうすればいいんですか?」
お教えしよう。
私が「こうしなさい」と言ったことに納得したら、それを実践しない。私が「こうしなさい」と言ったことに納得できなかったら、それを実践する。
これが私の「こうしなさい」である。
さて、みなさんは納得できましたか。
何?納得できない。
あらら、これはたいへん。

高校時の親友に念願の子供が生まれたと連絡があった。F君としよう。後でわかったことなのだが、F君とは中学は別だったが塾が同じで、お互いに顔は知っていたくらいの仲。高校1年の時に、偶然同じクラスになり、そこからの付き合いが既に20年以上続いている。小学、中学、高校、大学と様々な友人ができたが、っちょくちょく連絡を取り合っているのは、F君ぐらいなもので、こうなると私にとっては一番の親友といってもよいかもしれない。
最後に会ったのは、別の友人の結婚式なので5年前くらいか。今はまだ生まれたばかりで、奥さんが大変だと思うから、半年ぐらい経ってから家に押しかけようと思っている。
腹立つのが奥さんがまだ20代半ばという。どうなっているんだ、世の中は。全く。