買いと売りと待ち

酒田罫線法による操作を練習しています。基礎に10年、道具は生涯。

夏の練習

長女が4月にソフトテニス部へ入部した。思ったほど部活の練習がないみたいなので、土日はコートを予約して、朝一、二時間ほど練習に付き合っている。ラケットとボールを車に積み込み、着いたらまず準備体操とランニングから。特に夏休みに入ってからの、ちょっとした習慣になりつつある。

 

娘は全くの初心者ではない。ただ、まともに試合ができるレベルにはまだ程遠い。フォームは固まっていないし、狙ったところにボールが飛ばない。左右に振られると足がついていかず、体勢を崩したまま無理に打ち返して、ボールはあらぬ方向へ。それでも先週空振りばかりだったフォームが、今週は半分くらい枠に収まるようになっていた。地味だけど、確実に上手くなっている。

 

ミスをしたときの反応も変わってきた。最初の頃はなぜ打てないのか?全くわからない様子だったが、最近は何が悪いのか気づくことがあるみたいで、自分でブツブツ言っている。でも解決には至っていない様子で、次のボールでも同じ様なことが起こる。でも、こういうのが大事で、練習の醍醐味であるとおもう。技術より先に、こういう部分が育っている気がする。

 

同じ一年生で、やる気のある子がもう一人一緒に練習している。同級生は五人いるらしいが、土日にわざわざ自主練習に来るのはその子だけ。残り四人は部活の時間だけで、自分から出てくることはないそうだ。

 

その子とは、ラリーの練習相手にもなっている。二人でネットを挟んで球を打ち合う様子を見ていると、実力はまだ拮抗しているものの、粘り強さでは相手の子の方が一枚上手に見える。娘もそれを分かっているのか、負けず嫌いを発揮して長く続けようとする。ライバルがいるというのは、それだけで練習の質を変えるものらしい。

 

これ、自分の高校時代とまったく同じだった。実力より先に、やる気のあるなしで差がつく。技術は後からいくらでも伸ばせるが、やる気だけは他人がどうこうできない。当時の顧問が「才能より先に、来る奴が伸びる」とよく言っていたのを、今になって思い出す。当時部活は、同学年では9人いたが、二人は辞めて、結局残りの7人だけが後に残った。娘がやる気のある子と一緒に練習できているのは、単純に運が良かっただけかもしれない。

 

球出しをしていると、フォームの癖もだんだん見えてくる。テイクバックが遅れて、ボールに押し負ける。分かっていても、口で言うだけではなかなか直らない。何度も同じ球を出して、体で覚えるまで付き合うしかない。「もう一本」「もう一本」と繰り返すうちに、娘の方が先に音を上げることもある。

 

先日、娘が「試合に勝ちたいから、試合がしたい」と言い出した。気持ちは分かるが、順序が逆だ。練習でできないことは、試合でもできない。そう伝えると、「でも試合に出ないと強くならないじゃん」と食い下がってきた。基礎ができていない状態で試合数だけ重ねても、悪い癖がつくだけなのだが、何度言葉を変えても、まだ腑に落ちていない顔をしている。これはきっと、自分で壁にぶつかって初めて分かる類のことなんだと思う。教えて分かるものと、経験しないと分からないものがあって、これは後者。仕事でも似たようなことがよくある。手順を飛ばして結果だけ欲しがる人に、いくら理屈を説明しても伝わらない。結局、自分で一度失敗してみるしかないのだと思う。娘の場合も、多分そうなる。

 

朝七時から九時、みっちり二時間動くと、午後は異様に眠くなる。八時を過ぎる頃にはもう汗だくで、持参した麦茶の入った水筒が足りない。終わって帰ってシャワーを浴びて、床に寝転がった瞬間、意識が飛びそうになる。以前ならこれくらいで疲れることはなかったはずなのに、と思いながら、素直に齢を感じている。娘の球出しをしているだけなのに、翌日は脚が張っていることもある。

 

コートには親子でやっている人は少い。ソフトテニス自体の人口が少なく、ほとんどが硬式テニスのどこかの同好会が多い。朝、日差しが強くなる九時前には切り上げて、あとは家で麦茶を一気飲みするのがお決まりのコースになっている。

 

一方で、思わぬ発見もあった。社会人になってから始めたスキーのおかげで、テニスの安定感が明らかに上がっている。踏み込んだときの重心の落とし方や、切り返しの体重移動が、以前よりスムーズになっている感覚がある。畑違いのスポーツだと思っていたが、体の使い方はどこかでつながっているらしい。

以前なら体勢を崩して空振りしていたような球でも、しっかり足を運んで踏み込めている。スキーでコブ斜面を滑るときの、膝を柔らかく使って衝撃を吸収する感覚や足裏全体で身体の体重移動をする感覚が、どこかでつながっている気がする。子供の頃からテニスをやっていたわけではないので、こういう発見は素直に面白い。もともとは娘の球出し要員のつもりで自分のラケットを引っ張り出しただけだったが、いつの間にか自分の方が真剣に打ち返すようになっていた。道具は非常に大切だと考えているタイプなので、グリップの巻き替えは頻度が高い。

 

娘の練習を見ながら、結局は自分の体の使い方を見直す夏になっている。球出しをしながらふと自分のフォームを見直したり、娘に説明しようとして自分の理解が曖昧だった部分に気づかされたりもする。人に教えるというのは、自分の中の分かったつもりを一度分解する作業なんだと思う。教えているつもりが、案外こっちの方が学ばされているのかもしれない。

 

部活の顧問の先生は、経験者のようだが、普段はあまり練習に顔を出さないようだ。娘の練習に対する態度や球拾いへの姿勢が全く出来ていない。学校の練習だけでは、どうしてもそういう雰囲気を経験することができない。特に女子はコツコツ真面目にやらないと上達しないと思う。個々の課題に付き合えるのは、家庭の側でしかできないことなのかもしれない。

 

この夏の練習が娘にとってどんな実りになるのかは、まだ分からない。試合に出られるレベルになるまでには時間がかかるだろうし、「練習でできないことは試合でもできない」に心から納得する日がいつ来るのかも分からない。秋の新人戦あたりで一度壁にぶつかって、そこで初めて腑に落ちるのかもしれない。それならそれでいい。先回りして答えを教えるより、時間がかかっても自分で気づいた方が、結局は長く残る。子育てというより、これはもう指導そのものの話だなと、球出しをしながらぼんやり思うことがある。

 

あと一ヶ月足らずで夏休みも終わる。土日にコートを予約して付き合えるのも、今のうちだけかもしれない。だとしたら、この夏の二時間は、思っている以上に貴重な時間なんだろう。娘のサーブがどこまで枠に収まるようになるか、自分の膝がどこまでもつか。両方とも、楽しみにしておこうと思う。夏休みが終わった頃、この記事を読み返して、答え合わせをしてみるのも悪くない。

写真はまた今度。

初めての娘の手料理

夏休みも折り返しに差し掛かった頃、中学1年生の娘が「家庭科の課題をやる」と言い出した。メニュー決めから調理、そして出来上がるまでの過程をレポートにまとめる、という夏休みならではの宿題らしい。「へえ、何を作るの?」と聞くと、娘はすでにプリントに計画を作成していたのを見せてくれた。事前にスマホでレシピをいくつか見比べながら、決めたようだ。その姿を見て、これはただの宿題ではなく、娘にとって初めての"自分だけの台所仕事"になるのだろうと、少し楽しみな気持ちになった。

 

数日悩んだ末に決まった献立は、白米、小松菜の味噌汁、オクラのおかか和え、そしてナスの生姜焼き。決して手の込んだ豪華な料理ではない。けれど、汁物・和え物・主菜と、栄養バランスや調理の工程まできちんと考えられたラインナップに、娘なりの誠実さがにじんでいた。奇をてらわず、自分にできる範囲でしっかりと組み立てる。その堅実さは、思いのほか娘らしいと感じた。

 

当日、台所に不慣れな手つきで立つ娘を横目に、私は少しだけ身構えていた。まな板の位置を直したり、鍋の火加減を気にしたり、口を出したくなる場面はいくつもあった。が我慢、我慢。特に味噌汁の下ごしらえをしている娘に、私はつい助言をしてしまった。「油揚げも入れると美味しいよ」。良かれと思っての一言だったのだが、返ってきたのは「面倒だからいらない」という、にべもない返事だった。思わず苦笑いしてしまったが、よく考えればこれは娘なりの選択だ。手間を惜しむこと自体は、決して悪いことではない。自分の献立に、自分の判断で線を引く。小さなことだけれど、そこには「自分のやり方でやる」という意思がはっきりと表れていた。手伝いすぎず、口を出しすぎず見守ることも、この課題における親の役割なのかもしれないと、静かに思い直した。

 

一番ヒヤヒヤしたのは、やはり包丁を握る場面だった。ナスを刻む手つきはまだぎこちなく、刃先が指先すれすれを通るたびに、こちらの肩に力が入った。何度も「危ないよ、気をつけて」と声をかけそうになるのをぐっとこらえた。それでも娘は、真剣な顔で手元をじっと見つめながら、一つひとつの工程を丁寧にこなしていく。急ぐでもなく、雑にするでもなく、その日初めて向き合う包丁と、時間をかけて折り合いをつけているように見えた。その横顔は、いつも見ている甘えん坊の「子ども」の顔とは、少し違って見えた。危なっかしさの中に、確かな集中力があった。ふと、この子はもうこんな顔ができるようになったのかと、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 

そうして小一時間ほどかけて、すべてのメニューが無事に完成した。指を切ることもなく、火加減で焦がすこともなく、レポートに必要な工程もひと通りやりきった娘の顔には、隠しきれない達成感がにじんでいた。エプロンを外しながら「疲れたー」とつぶやくその声にも、どこか誇らしさが混じっていたように思う。

 

食卓に並んだ料理を、家族みんなで囲んだ。正直に言うと、ナスの生姜焼きは味付けがやや薄く、生姜の風味も控えめだった。小松菜の味噌汁も、具がどこか寂しく感じられた。あの時「油揚げを入れておけば」と、心の中で少しだけ思ったのは内緒にしておく。それでも家族からの評判は上々で、「美味しいよ」「頑張ったね」という声が自然と食卓に飛び交った。味の完成度そのものより、初めて自分の手で一食を作り上げたという事実の方が、ずっと尊いものに思えた。薄味の生姜焼きも、具の少ない味噌汁も、今日という日だからこその味だった。

 

食事を終えて、私は軽い気持ちで「また作ってよ」と娘に頼んでみた。返ってきたのは、「疲れるから嫌」という、実に素っ気ない返事だった。少しがっかりしたけれど、同時に笑ってしまった。きっと娘にとって、あの日の調理は「やり遂げた達成感」と「思った以上に大変だった疲労感」が、同じくらいの重みで残っているのだろう。大人が想像する以上に、一食を作り上げるという行為は、体力も集中力も使う重労働なのだ。それを身をもって知ったからこその、あの素っ気ない返事だったのかもしれない。

 

味付けが薄かったことも、油揚げを拒否されたことも、「また作って」をあっさり断られたことも、今振り返ればどれも愛おしい記憶だ。娘はまだ、料理を「日常のもの」として受け入れてはいないのかもしれない。それでいい、とも思う。それでも、あの日確かに一人で台所に立ち、献立を考え、包丁を握り、味を決め、一食を作り上げた。その事実は、これからの娘の中に、きっと静かに、けれど確実に積み重なっていくのだと思う。

 

次に娘が自分から台所に立つのは、いつになるだろうか。もしかしたら、もうしばらく先かもしれない。それでも急かさず、焦らず、その日が自然にやってくるのを、楽しみに待とうと思う。こういう成長を見るのが親の醍醐味なのだ。親というものは子どもの何気ないことで幸せを感じられる。

Fable5を使い倒す!

Claude Fable5が復活!7月7日迄のお試し期間で限界まで使い倒す。

私は非エンジニアなので、様々な事に使える。スキルのブラッシュアップ。メモリ、ログの整理。pythonファイルの見直し。

使ってみた感じ、先に余り凄さは感じないのは、用途が違うからかも。AIの進化が2倍、4倍、8倍・・・となるのに、協業出来ないとどうなるのか?その差は同じく、2倍、4倍、8倍・・・となる筈?でもきっと殆どの人はそうならない。

でも、8倍、16倍、32倍となる人も出てくる。

これが、この先の未来絵図です。

7月7日以降は従量課金制らしいけど、そんなに凄いなら、使う人は使い倒すと思う。

 

 

仕事は考えるから判断するへ

AIによって、仕事のやり方が大きく変わろうとしている。良くある話ですが、仕事がAIに置き換わるとかそういう話ではないです。

まだAIチャットで調べものや文章作成での利用ぐらいの人が多いと思います。

しかし、そうではなく、考えるのはほとんどAIで、判断したり補助するのが人間。そういう形に仕事が変わってきている。

これは、仕事の質が変わる。そういうお話です。

仕事は、どこまで細分化し、原因調査し、まとめ、整理、分析、特徴を掴み、手を打つのか?そして、打った手に対して効果的かどうかの検証をする。その繰り返し。

その細分化とスピードが、仕事の質が言っても過言では無い。それが、コストや時間や関わった人の能力で差が生まれる。

しかし、AIはこの工程の殆どを担える。

こういう時代になって、思うのは、やっぱり人間の凄さ。AIが答えを出せば出すほど、人間は全て直感でその判断が出来る。AIは、こうだから、あ‐だからと言って答えを出す。この差はまだ大きい。

人間は、何万年の歳月をかけ、生まれて、思いついて、伝えて、死んでを繰り返し、発展してきた。

でも、AIはそれをものすごい速さで、答えをだせる

様に、習得している。そのうち、判断も全てAIがした方が良い時代になると思う。

 

前にMarkdownについて触れたことがありますが、これがAIとの親和性が高い。ここを上手に説明できると良いのですが、私には難易度が高そうです。

兎に角、AIに与える情報はMarkdownで与え、整理させる。それがAIにとって、効率良く考えられる。最良の方法。

 

 

裸の王様の作り方

口出しをする。人を信用しない。性悪説で話す。人の話を聞かない。話を遮る。自分の中に答えがある。特定の人の話を鵜呑みにする。皆の陰口を皆にい言う。

こんな事を続ければ、皆から愛想をつかれ、1人孤独になれる。そういう人生も良いのかも知れないが、楽しく無い。

遊びじゃ無いというけど、楽しくないより楽しい方が良いのでは?

何の為に生きているのか?人によって違うこともあるけど、自分の幸せの為に生きようよ。そうじゃなきゃ、駄目になるよ。

 

これなんだと思います?私が親子作品展で作った物です。

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そう!誰がどう見ても分かるものですよね!

そうです。縄文式土器です。

作る前に、子供の担任の先生に話したら、作品展で初めてです!って言われましたが、この出来!

隣のパパに、全然わかりません!って苦笑いされたのは内緒です。

ホントマジで忙しかった

本当は1月に書いた記事ですが今更投稿します。

 

明けましておめでとうございます。

とてもお久しぶりです。

 

9月に異動になって、退職が続き、ずーっと忙しく余裕が無くなってました。昨年だけで、社員5人辞めています。今年は既に4人が辞表を出している状態。元々利益率が高く、ぬるい社風だったものを活人化という名のもとに篩落としをしている様なものですが、もう駄目かも知れません。

新しい仕事が増え、朝起きてから頭ぐるぐる回していると会社ついて、打ち合わせと来客対応して、外回りして、トラブル対応して、調査して、報告して、怒られて、不満言われて、人辞めて、もう年末からと年明け。

自分でやらなくて良いと周りは言うけど、やれる人いないじゃん。言う人は皆自分には関係無いとおもってるから言ってくる。一体何してんだろって考える。でも、処理しないと次から次へと。マジ辞めたいと考えが浮かびますが、まぁ、でも何とか乗り越えた。

社長が変わると会社の色合いが全く変わるのは社畜の宿命なので、文句だけ言ってる弱い存在。

心理的安全性が重要と社内研修やった側から、ウィークポイントを厳しくついてくる。もっと、長所を伸ばして欲しいんだけど。

 

資産は確実に増えていますが、心は荒む。かつてバブル期の世代もこんなだったんでしょうか?

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今年の恵方巻きは、角上魚類で購入。滅茶苦茶美味かった。

 

社員を大切に出来ない会社は、教育コストが高まる事に気づく必要がある。だから、採用には力が必要なのだ。これからますます企業は採用を絞り、良い人材を確保する。何となく生きている存在は篩落としされ、落とされない存在は切磋たくまできるかで、また格差が開く。

でも、そんなのは生き残る事の本質ではない。

社畜という中での競争原理。そんなのとは無縁の世界で生きている人達も沢山いる事実も見る。

自分の責任か、人の責任か。その差である様な気がする。

いつも何もしない

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息子と行く公園の情景が素晴らしい。

身近な場所であっても大きな変化がある。

いきなりは変わらない。少しずつ変化する事を痛感する。

 

今年の1月に部下と元部下の2名がほぼ同時に退職願いを出し、3月に辞め転職した。

先週、その辞めた1人から、先日職務履歴書の提出を求められたと実印の依頼があった。彼は、辞める時友達の誘いで、その会社に移ると言っていた。年収も数十万程上がると。

しかし、9月に既に退職をしているそうだ。理由はわからない。6ヶ月で会社を辞め、2ヶ月転職先を探していたようだ。新しい転職先で移った会社が短くて、その前の書類を要求されたと推測する。

心配なので連絡しても良いが、お互いにバツが悪いと思うので悩む所だが、連絡はしないと思う。

 

もう1人の方はもっと心配。やりたい仕事がやりたいということで、好きなことをやりながら、しばらくやりたいことを探しているそうだ。転職するんじゃなく、店とか出すのかもとも考える。

 

30代ぐらいであれば、職は直ぐに見つかるだろう。

サラリーマンは、安定している。今は、パワハラと言われやりたくない事も拒否できる。

私としては、「何をしたいか分からない者」は、「いつも何もしない」からだと思う。抽象的だが、その事に気づけば、何がしたいか見つかると思う。

 

私は、一時期何をしたら良いか迷った時期があった。学校卒業後は2年程学校の延長で契約社員的な生活をしていた。結局25歳で今の会社に入った。

「自分探し」なんて無いと思っている派だ。「好きなことを仕事にする」というキャッチーな言葉に騙されている。私は、「今好きなことになっているのは、最初好きではなかったこと」だと考えている。私は、コーヒーが好きだがそれはコーヒーを飲む様になってから好きになった。コーヒーが飲む前から好きであったわけではない。高校生の頃に、親がコーヒーを良く飲んでいて、「リラックスできる香り」がするから、興味を持って飲み始めたのが最初だ。

もし、偶々趣味を仕事にすることができたとしても「継続してその仕事が好き」となる可能性は低い。段々その仕事が好きでなくなり、「やっぱり好きなことではなかった」となる可能性が非常に高いと考えている。それは、仕事だからに尽きる。

 

社会人になり「何かをする」とはどういう事だろう?「自分は何をしているのか?」と改めてよく考えると非常に興味深い。