買いと売りと待ち

酒田罫線法による操作を練習しています。基礎に10年、道具は生涯。

正しい育児

また、身近なモノが連続で壊れる・・・
以前所持品が連続で壊れる現象が続いたが、現在も故障が続いています。
物品儚い夢の如し・・・

①ノートパソコン
先日の海外旅行に持って言ったんですが、ホテルで起動したら起動しなくなってました。一緒に持ってた鏡も割れていたので何かあったのでしょうか。ただ、ぶつけたり、落とした記憶はないのですが。外観は異常ありませんが、通電しないのでバッテリー異常ではなさそう。
これは保険の携帯品破損で補償してもらうつもり。ただ、8年前のモデルなんでどのくらいになるか不明・・・

②ポータブルHDD
これは旅行から帰ってきてから、仕事や個人データを入れて持ち運んでいたものですが、買ってまだ3ヶ月しか経っていないのに、コードを引っこ抜いて、次に差し込んだら差し込めず。よく見るとコードのコネクタ部分が一緒に取れてしまっている模様。ポータブルなんだから抜き差し耐性をちゃんと確認しろよとメーカーサポートにゴラァしておきました。データちゃんと守ってくれるのか確認したら、保証はしながら無事だったら連絡すると・・・
心配なので、分解させてくれ!って頼んだら、分解したらサポート対象外になりますとあっさり断られました。ですよねー・・・

③車
先月ぐらいの帰宅時に突然ドーンと追突された様な現象があって、その後はしばらくなかったんですが、昨日の朝、oil温度警告ランプがついて、その後ミッションの調子が悪くなりました。
こちらは、実費で修理だろう。
痛い!全くもって痛いなぁ・・・


さて、ここからは引用

正しい育児
内田樹

昨日の最初の話題は「子どもを階層の違う家庭の子どもと付き合わせることの可否」であった。
最初は質問の意味がよくわからなかったのだが、どうやら「自分たちとは価値観や生活様式の違う家庭の子どもとは付き合わせたくない」ということを公言する親御さんがいるらしい。
そうしたいなら、好きにすればよろしいとお答えする。
しかし、単一の価値観、単一の生活様式しか許容できないようなタイプの子どもが成長したあとどうなるか、親御さんたちも多少は想像した方がよろしいのではないか。
そのような子どもは長じて価値観や生活様式の違う人々と共同体を作ることを不得手とする人間になる。
当然ですね。
政治イデオロギーも信教も美意識も食物の好悪も、自分と「違う」人間はできる限り忌避し、似たもの同士の同類とだけ暮らしたいという人間が出来上がる。
ほんとうにそれでよろしいのか。
第一に、そういう人はクリエイティヴな仕事に就く上で多大の困難を覚えるはずである。創造的な仕事の現場とは、たいていの場合、「そのような考え方感じ方をする人がまさかいるとは思わなかった他者」たちとの出会いの場だからである。
それはまた配偶者の選択肢がきわめて限定されるということでもある。異性間で価値観と生活様式が一致することはきわめてまれだからである。
そして、運良く配偶者を得たとしても、それは自分の子どもと共生することに困難を覚えるということである。ふつう、幼児は価値観とか生活様式というようなものを確立していないからである。
それはまた、老齢者となった親(この雑誌の読者である人々)が子どもから忌避されるということをも意味している。老人と若者では価値観も生活様式もはなはだ異なるからである。価値観や生活様式を異にする人間とは共生しない方がいいと教えられてきた子どもたちは、合理的に推論した上で、彼らを「そんなふうに」育てた親たちについても、「最近、うちの親も年とっちゃって、なんか話が噛み合わないんだ」と思えば、逡巡なく視野から排除するであろう。
話が噛み合わない人間と話を噛み合わせるために知性的・感性的リソースを用いるのは「よくないことだ」と子供のときから教えられてきたら、当然そうなる。
もし、そうなっていないとしたら、それは子供たちが「価値観や生活様式が同じ人とだけ付き合いなさい」という親の教えに従わないで、勝手に成熟したからである。
子どもを「価値観や生活様式の違う家の子とつきあわせないためにはどうしたらよいのでしょうか」と訊いてきた親たちは、いずれ自分たちの子供から追い出されることを通じて、そのような問いの答えを求めたことを後悔するか、あるいは子供が自分たちの言うことをぜんぜん聞かないで成熟したことを知って、そのような問いの答えを求めたことの無意味さを知るか、いずれかであろう。
どちらにしても無駄なことである。
子どもは放っておけば、必ず価値観や生活様式の違う他者に惹きつけられる。
それは生き延び、子孫を残す上で必須な能力と資質がその関係をつうじて涵養されることを子ども自身が本能的に知っているからである。
それを親がそれを阻害しようとするのに「何か効果的な方法はありませんか?」と訊かれても答えようがない。
自分の子どもを「誰からも愛されず、誰も愛することのできない人間にしたいんですけど、どうしたらいちばん効率よくそうなれますか?」という質問に、誰が答えることができようか。
現在メディアで育児戦略として流布している理説のほとんどは「誰にでも、いつでも妥当する」という建前を掲げている。
しかし、その一点で、それらの理論はすでに間違っている。
というのは、育児は構造的に斉一的ではありえず、かつ首尾一貫しないものだからである。
すべての子どもはそれぞれにきわだって個性的であり、同じ子どもは二人といない。そして、子どもは絶えず変貌している。
だから、「誰にも、いつでも妥当する」育児戦略というのはありえないのである。
育児理論について私たちが言えるのは、「単一の、首尾一貫した育児理論はつねに失敗する」ということである。
「だったら、どうすればいいんですか?」
お教えしよう。
私が「こうしなさい」と言ったことに納得したら、それを実践しない。私が「こうしなさい」と言ったことに納得できなかったら、それを実践する。
これが私の「こうしなさい」である。
さて、みなさんは納得できましたか。
何? 納得できない。
あらら、これはたいへん。


なんだか育児ブログになって来てしまった。
まぁ、自分の成長と子供の成長は今の自分にとって一番興味ある部分である事は変わりないので、全く関係ないとは言えないという逃げの言葉で無理やりつなげる(笑)

以前、成熟というキーワードで検索していると、内田さんのブログを真っ向から否定しているブログを見つけた。ブログ主はコンサルタント業の方で、セミナー講師もしている様だ。内田さんの記事は、いわゆる抽象的な結論が多く、詐欺師の様にどの立場から見ても、嘘はつかないが曖昧で読んででいて学ぶところがない、無駄とされていた。確かにそんなイメージは私も感じる。ただ、教育とか成長というものは結局そういうもので、正解とか正道というものが存在しないのであると思う。コンサルトはビジネスで結果にコミットする以上、学校の先生的立場とは違うものだと私は思います。
成長はその過程というかプロセスというか葛藤というか、そういう自分自信で何を考え何を思って何を経験するのかが大事であって、人とか環境とか外的因子から直接成長を与えることはないんだと思う。だから、常習的な体罰なんて以ての外で、きっかけとは成れどそれが良い結果とは関係ないのだと思う。
最後のフレーズはわかるでしょうか?

私が「こうしなさい」と言ったことに納得したら、それを実践しない。私が「こうしなさい」と言ったことに納得できなかったら、それを実践する。
これが私の「こうしなさい」である。


内田さんは一貫してこの意味を繰り返し言っている。そういう父性的なところがすごいなぁと思う。
子供の成長にコミットしない親を最近の親は否定している傾向に思えるが、コミットなんかできるか!と私も思う。
場帖を書け!、グラフを描け!と似ているんだよなぁ。