子供の頃から礼儀について、自分自身でしっかりと考えたことも無かったが、最近というより社会人になってからその大切さを考えるようになった。というのも、次々と新しい人と会う機会が増え、自分から積極的にその中に入っていく必要性が生じたからであると思う。
まだ自分自身はとても未熟で「礼儀のある人」とはなっていないが、礼儀を教えるのにとてもよい記事があったので、抜粋して掲載します。
自分に関わる環境すべてに関わるモノであると思います。
「礼儀を重んずる事」~
瀬戸塾師範 瀬戸謙介
空手の練習の始めと終りには正座をし礼を行います。何もない正面に向かって礼をすることに皆さんは疑問を持ったことはありませんか。
以前、私がハワイで空手の指導をしていたとき「誰もいない正面に向かってどうしてお辞儀をしなければいけないのですか」と疑問を投げかけられたことがあります。
私はその時「道場はジムと違い技術や技だけを学ぶ所では無く、技を通して、心を学ぶ場所、つまり自分の内面を鍛える場所だからです。道場は自分を磨く修行の場所であり、神聖な場所だから空手を学ぶ者は謙虚な気持ちでこれから自分を磨く場所に対して、『よろしくお願いします』と言った気持ちで礼を行わなければいけません。そして礼を行うことにより、これから自分が修行に励むと言った心の切り替えと覚悟をするために行うのです。稽古の終わりに行う礼は、自分の心を磨く場所に対し、感謝の気持ちを持って行います。」と答えました。皆さんも是非この様な気持ちを抱きながら礼を行っていただきたく思います。
礼儀と挨拶
礼儀とは、自分が礼儀をわきまえていると言うことを相手に伝えることにより、自分を理解してもらうための一番効率の良い手段です。大切な物、壊れやすい物、刃物、など物の渡し方、受け取り方一つでその人の人間性、人柄が見られていることがあると言うことを忘れてはいけません。
礼儀正しい人と思われるのと、なんて礼儀知らずの不作法な奴、と思われるのでは相手の心の開き方が違います。但し、相手に取り入ろうと言った気持ちから行う礼儀は、品のない礼儀であり、礼儀に値しません。
「おはよう御座います」「おはよう」「オス」と挨拶にも色々な声の掛けかたがあります。この違いは、目上の人、親子、友人等、自分と相手との間柄の違いによって掛ける言葉と間合いが決まります。人と接する時に、この言葉使いと間合いがとても大切なことです。しかし、ややもすると現代人は、何も考えずにズカズカと平気で人の間合いに入って来がちです。やはり、目上の人に接するときの間合い、友達との間合い、初めての人との間合い、それぞれ親しさによって挨拶するとき、会話するときの間合いは違います。この、人と接するときの間合い、これをわきまえ、守ることが礼儀として最も大切なことの一つです。
皆さんは空手を学んでいるので、いかに間合いが大切かは解っている事と思います。どの間合いに成れば戦いが始まるかを。普段でもそうです。あまり親しく無い人に必要以上に近づかれると落ち着かなくなり非常に不愉快な思いをします。
人と人との間合いを何も考えずにズカズカと間合いに入ってくる人のことを無礼な奴と人は言います。
礼儀が生まれた理由
人が人と付き合う場合に自我のぶつかり合いだけでは上手く行きません。そこにはやはり一つのルール、約束事が必要と成ってきます。その約束事が「道徳」であり「礼儀作法」です。「どうすれば、相手は安心し、こちらの誠意が伝えられるか」という事が礼儀の基本的な考え方です。
私たちが安心して日常生活を送る為に最も大切なことは、社会全体が秩序正しく平和なことです。秩序が乱れたならば社会が不安になり乱れてきます。その社会の秩序を保つ為の具体的な行為が「礼儀」です。
江戸時代の儒学者、太宰春台は「礼」について「人間は動物であるから、心もまた動物です。すなわち動くものである。したがって常に欲望に左右されており、自分に損に成ることは避け、利になることを求めるのは自然の情と言うべきである。この点において君子も小人もなんら変わるところはない。そこで、その心を『先王の道』で教育をすれば君子の智となり、放っておけば、小人のままにとどまることになる」しかるに「義を持って事を制し、礼を持って心を制する」と説きました。
人の心の中には常に善と悪とがあり、その狭間で心は揺れ動かされている。同じ人間でも善人にもなれば悪人にもなる。人間だれしもほっておけば自分の得になる事しか求めない。人を善の道に導くには、「正義を貫き悪に立ち向かっていく勇気の大切さを教え、礼の形ちを持って人間の欲望を抑える事をすれば世の秩序は保たれ、平和な社会を築く事が出来る」と考えた。そして、「礼」を厳しく躾、人間の行動を一つの型にはめていく事で歪んだ心も正されていくと説きました。当時、この説に対して多くの儒学者達から「仁が根本であり、礼はその結果表に現れるものである。外面の型さえ整っていれば内面はどうでも良いのか」と批判された。その批判に対し春台は「いくら心だ心だと言った所でそれが形ちとして現れなければそれはないものに等しい。理屈など知らなくてもよい、まず『型』をおぼえ、それを行動として現していくうちに自然と道徳とは何かが身に付いてくる。礼儀を厳しく教えることによりその教わる過程を通じて、行儀作法とともに心も正しくなる」と説きました。
理に適った正しい姿勢、動きは自然と心が洗われる。
小笠原流礼法
礼儀作法の代表格として小笠原流と言うのがあります。現在伝わっている礼法のほとんどがこの小笠原流礼法を基本として出来ています。私たちの道場で行っている、正座やおじきのしかたはこの小笠原流に乗っ取って行っています。
小笠原流と言えば一般的には女性の為の行儀作法を説いた流儀のように思われていますが、実は小笠原流と言うのは本来男子、それも弓馬の術から始まったものです。室町時代、足利尊氏に仕えた小笠原貞宗の時弓馬の法に礼法を加え弓・馬・礼の三法をもって小笠原流とし、それが現代へと伝えられて来ました。
礼法の基本は「自分を卑しめることなく、いかに相手に誠意を伝えるか」に有ります。侍は馬に乗って行き会うときにはあぶみ鐙をはずすのが礼儀とされました。それは鐙をはずすことにより相手に斬りかかることが出来ない。つまり危害を加える意志の無いことを相手に伝える一つの方法として考え出されました。また、畳の縁を踏まないと言った教えも、善などを運ぶときに縁につまずかないように、足の先にまで神経を行き届かせなさいと言った教えです。
小笠原流の礼法は人に挨拶する時に相手との間柄によってどのような角度で上体を倒すべきか、歩き方、座り方など、きめ細かく決められています。これらの一つ一つには、こうすれば相手は安心し、こちらも誠意を伝える事が出来るということを長い経験の結果作り上げてきたのです。そしてこれらの作法は、相手を心使う真心をいかに美しく、合理的な「型」として示す事が出来るかという点に立脚しています。この「美しく」と言う事がとても大切なことです。
礼儀の動作に、嫌味や誇張が有ってはいけません。また、流れが分断するような不自然な動きも理に適っていません。すべての動作の中にに緊張感が漂い、緊張感の中にも爽やかさが有り、美しく無駄のない動きでなければいけません。(空手の形も同様です。無駄な動きや誇張は隙を伴い、見ていて美しくありません)
また、小笠原流の礼法が枝葉末節に至るまできめ細かく規定されている理由は、人との調和・道徳的訓練を求めているのと同時に、厳格な礼法を学ぶことにより精神の修養を求めているからです。
社交的な礼法は、外見上の姿で人々を感服させることが目的ですがそれは真の礼法とは言えません。真の礼法は、精神的な意義の方にはるかに重きを置いています。小笠原流宗家では、礼について「礼道の要は心を練るにあり、礼を持って端座すれば兇人剣を取りて向かうとも害を加うること能わず」(訳)「礼法の目指すところは、心を練ることにあります。しっかりと心を練り、どっしりと正座をすれば、凶悪な暴漢が剣をとって向かって来ようとも危害を加えることが出来ない」と教えています。つまり、正しい作法を身に付け修練することで、肉体と精神を鍛え上げ、何事にも動じない、人格的にも優れた人間が出来上がると言っているのです。
礼儀作法の中には現在の生活環境から考えると不合理なものも多々あります。ですからすべての作法をまねる必要は無いとは思います。しかし、一見不合理で滑稽に映る行為も、内に秘められている心根を理解したならばそれをただ単に滑稽な行為だと片づけられないものも多々あります。
新渡戸稲造先生が書かれた「武士道」の「礼」の項目に、
日本在住の婦人宣教師が「私が日傘を持たないで歩いているとき、知り合いに出会い挨拶を交わしました。挨拶をするときには帽子を取って挨拶するのはごく自然ですが、話しをしている間中相手は自分の差していた日傘をたたんで下ろし炎天下に立ち通していました。これは恐ろしくおかしい仕草です。なんと馬鹿げたことか。」と新渡戸先生におっしゃいました。それに対して新渡戸先生は、「その通りです。もし彼の動機が次のようなものでないのなら非常に滑稽だと思います。」「あなたは日にさらされている、私はあなたに同情します。もし私の日傘が二人が入るのに十分な大きさであれば、あるいは私たちが共に一つの傘の中に入る間柄であるのならば、私は喜んで貴方を私の日傘の中へ入れてあげたいと思っています。しかし私の日傘は貴方を覆うには小さすぎます。ですからせめて貴方の苦痛を分かち合います。と言うのでなければ本当におかしい事だ。」と答えられたそうです。
私も以前同じような経験をしたことがあります。
友人4,5人で出かけた時のことです。歩いている途中で雨が降り出してきました。友人の一人は傘を持っていましたが差そうとはしません。私が「傘を持っているのだから差せよ」と言っても「たいした雨でないから」と言って傘を差さずに私たちと一緒に濡れて歩きました。いくら傘を差すように言っても「だいじょうぶ」と言って差そうとはしませんでした。二人だけでしたら彼も傘を差して一緒に歩いたかもしれませんが、一本の傘で全員をおおう事が出来ません。自分だけ傘を差して友達が濡れて歩くのを見るに忍びない。だから自分もみんなと同じ所に身を置くことを選んだのだと思います。この行為こそが礼儀の基本的な感覚では無いかと思います。自分の身に置き換えて相手を思いやる感覚、痛みを分かち合う精神こそ「礼」の基本だと思います。
新渡戸先生は礼に関してこの様におっしゃっています。礼儀は最高の形にまで高められると、それはほとんど愛に迫まる。礼儀は「寛容であり、慈悲あり。礼はねたまず、礼は誇らず、驕らず、非礼を行わず、己の利益を求めず、憤らず、人の悪を言わず。」礼儀はせいぜい立居振舞に優雅さを加えるにすぎないと言う人もいるが、それがもたらす大きな益を否定出来ない。礼儀の影響はその程度には止まらない。礼節は仁愛と謙遜の心から発する者であり、他人に寄せる深い心根に発する優しい思いやりによって動くものである。したがって礼節は常に同情の優美なる表現である。礼の我に要求するところは、悲しむ者と共に悲しみ、喜ぶ者と共に喜ぶことである。
つまり、相手に対して思いやる心が礼の基本だとおっしゃています。
礼は過るな
あまり丁寧すぎる礼は気を付けなければいけません。必要以上に丁寧な礼は自分の心を卑屈にします。
「礼に過ぐればへつら諂いとなる」と伊達政宗公も過剰な礼に対して戒めていました。
また、孔子も「巧言令色鮮仁」(言葉が巧みでお世辞の上手な人には人間としての最高の道徳であるところの仁を求めることは出来ない)と言っています。
ただ単に相手の機嫌を損ねない為、良く思われたい、取り入って美味しい思いをしたい、等と言った気持ちでの礼ならば、自分を卑しめる者であり、礼の本質からそれています。
礼儀とは、相手のもっている真の価値を認め、それにふさわしい尊敬の念を込め、その尊敬の念が形ちと成って現れたものでなければいけません。
この真の価値というのが大切な事です。世の中にはただ先輩と言うだけで存在価値が有るかのような錯覚におちいり後輩に対して威張り散らし、後輩が礼を尽くさないと怒る人もいます。しかし大切なのは、先輩が先輩としての価値があるかどうかと言う事です。先輩は常に後輩の鏡で有る事を意識し行動しなければいけません。そこに先輩としての価値が生まれ自然とその価値に値する礼儀を後輩から受けるようになります。
今、若者のマナーの悪さ、社会の乱れなどが問題となっています。東京都では「心の東京ルール」と言うのを作り、子供達に「挨拶をさせよう」「他人の子供をしかろう」など7つの決まり事を設け、運動を展開しています。しかしそういったマナーを子供達にいくら押しつけても彼たちが良くなる訳がありません。我々大人、特に社会でのリーダー格の人々が礼儀をわきまえ人間としての正しい姿、形ちを示し、本当に価値の有る人間に成る事により世の中の安定が生まれてくるのではと思います。
礼儀をわきまえ、真に価値ある人間に対しては自然と周りも礼を尽くすようになると思います。